素人レンズ教室-その22
文化祭開催です。 ジローたちの出し物は演劇 「ビオターの憂鬱」 前編
|
麗子先生 : さあ、今日は文化祭で発表する演劇のリハーサルよ。
練習は今日が最後だから、みんなしっかり演技してね。
今回の演劇のテーマは「ビオターの憂鬱」だったわね。
ジロー : そうだよ。4つのショート・ストーリーにまとめて、寸劇スタイルでやるんだよね。
はるか : 一人で何役もこなさなくてはいけないから、難しいわ。しかも登場人物は男性ばかりだから、男役だし、、(ぶつぶつ、、、)
麗子先生 : はるかちゃん、悪いけど、我慢してね。
はるか : 昔の話だから男性ばかりでも仕方ないとあきらめてます。
麗子先生 : まず、始める前に「カール・ツァイス社」と「プラナー・ビオターに関係する出来事」や「主要人物の足跡」を
一覧にして掲示しておいたほうがよいわね。 |
|
|
麗子先生 : これでいいわね。じゃあリハーサルを始めましょう。ナレーターはジローね。
|
(リハーサル開始)
「ビオターの憂鬱」
ナレーター:
(淡々と)
ひび割れた机の上にある一本のレンズ。
「ビオター4cmf1.4」製造番号80万番台のこのレンズは、1927年にツァイス社のウイリー・メルテが映画用に設計し、プラナーの製造中断から20年近くたって送り
出された「ダブル・ガウス型」レンズの復活第一ロット250本のうちの1本である。
|
|
ひとつぽつんと置かれたレンズの頭の中は混乱していた。
「なんで僕はビオターなんだろう?」
「戦争前の兄貴分、第一世代のビオターは確かペッツバール型だったのに、僕はダブルガウス。同じダブルガウスだったら、伝説のルドルフ博士が作ったプラナーが
良かったのに。」
「いつかプラナーになる日がくるのかなあ?」
窓から入る柔らかな光をその美しいガラスで反射させながら、ビオターが悩んでいると、そこにいくつかの足音が近づいてきた。
机を囲んだのは3人の紳士だ。でもこの紳士たちにはもう少し後に語ってもらうことにしよう。
|
ナレーター:
(厳かな声で)
1900年代の初頭、1815年ナポレオン戦争の後処理以降、複雑に入り組んだ列強各国領土問題に関する不満と野望が火を噴くのも時間の問題かと思われていた。
国力を急速に高めていたドイツ帝国では、1890年のビスマルク失脚とともに好戦的な王ヴィルヘルム二世が権力を掌握し、ロシアとの関係が悪化。
一方積年の敵国であるフランスはそのロシアと接近し、ドイツを挟み撃ちにせんとしている。
幾度かの恐慌を経験しても、欧州経済は活発であったが、産業の急拡大とともに、資本と通貨の相互依存と相互制約も急速に進み、行き詰りつつあった
マルク経済圏拡大の必要性に迫られるドイツ、各国(特にドイツ)との貿易競争に不満を募らせるロシアなど、火種はそのきっかけを待つだけになっていた。
そんな時代の中、大戦直前の1910年から13年にかけて、後のカメラ産業に大きな影響を与える出来事がいくつも起きている。
では、その中から、レンズの発展にかかわるエピソード4つ紹介してくこととしよう。
(幕が上がる)
|
第一話 「青年オスカー・バルナックの挫折と出会い」 1910年
配役 *オスカー・バルナック(はるか)
ツァイス社からイカ社に出向してきている青年技術者。
*グイドー・メンゲル(ジロー)
イカ社の社長 母体の一つヒュッティヒ(Hüttig )社出身
*エミール・メヒャウ(麗子先生)
バルナックのツアィス社の先輩であり、先にライツ社に移り、バルナックを誘う。
ナレーター:
1910年.ここは、ドイツのドレスデン。当時最大級規模を誇ったカメラメーカー「ICA社」の社長室である。
ICA社はこの前年にカール・ツァイス・パルモスバウ部門を含むカメラ会社4社が合併してできた企業である。パルモス社は、ツァイスの写真部長パウル・ルドルフが
自らクルト・ベンツィン社と交渉して設立した会社で、同社がツァイスに吸収され、その直後にさらに放出されたことがルドルフ博士とツァイス社との不協和音の
きっかけとも言われている。
さて、バルナック、、、この時まだ31歳の青年技術者である。
(バルナック) いかがです?メンゲル社長。
(メンゲル) 君が「ツァイス社」から当社に出向に来てどのくらい経つかな?
(バルナック) 約2か月になります。
(メンゲル) そうか、まだそんなものだったかね。2か月にしては、この小型カメラの企画はなかなかよく練れているよ。
これはかなり以前から研究してきたに違いないね。
(バルナック) そうですね。私は元来喘息持ちですし、慢性的な風邪のような症状に悩まされてきました。
このあまり強くない身体で、山歩きやトレッキングをしながら自然の写真を撮影することが好きなのです。
(メンゲル) それは、よく知っている。いつも頑張っているので、感心しているよ。
(バルナック) こんな身体ですから、どうにも重たいカメラを持ち歩くのが苦手です。どうにかして軽くて使いやすいカメラが作れないかなと
ツァイスに入ってからずっと長い間勉強してきました。
(メンゲル) そうか。
(バルナック) 今回はそのアイデアをまとめて、簡単な試作品として作ってみました。社長にぜひご覧いただいて、私個人で使うだけではなく、
世の中の多くの人に使って貰えるよう、イカ社で製品化したらどうかなと思ってお持ちしました。
(メンゲル) シャッターはフォーカルプレーンのようだが、正確さや耐久性には問題ないかな。
(バルナック) この小型カメラの将来性の一つが幅広い展開が図れる点だと思います。引き伸ばしや、接写に加え、やはり将来的には多様なレンズを
利用可能とするという目標があります。
そのためにはレンズごとにシャッターを装備していたのでは、コスト的にも携帯面でも問題が生じるため、私はフォーカルプレーンを採用したい
と思います。まだまだ試作段階ですが、シャッター速度の正確性は確保できています。
(メンゲル) そうか。思ったより軽い感じだが。
(バルナック) このカメラの大きなメリットは、機構がとても単純にできるという点にもあります。しかも映画用フィルムを一度詰めれば、30枚以上はそのまま
撮影できますし、大きな機動性と利便性が確保できると確信しています。
(メンゲル) 一つ一つの技術はすでに使われているものも多いが、よくここまで一体化できたものだね。
(バルナック) ありがとうございます。
(メンゲル) ・・・・・・・・。
(バルナック) お考えはどうでしょうか?
(メンゲル) では私の結論を言おう。
このカメラは確かによくまとまっている。ただ、わしにはドイツ帝国のカメラマンたちがこのように心もとない小さなカメラ、そして小さなサイズの
フィルムに満足するとはどうしても思えんのだよ。君のような考え方の一部の人には確かに受け入れられると思う。
しかし企業を預かる身としては、生産量が限られ利益が望めない商品を出すわけにはいかん。申し訳ないが、結論はノーだ。
(バルナック) これからは必ず小型で携帯性の良いカメラが求められます。お考え直すことはできませんか?
(メンゲル) 君の言うとおりかもしれん。しかし、わしはこのイカ社を預かる経営者として、結論を変えることはできん。
(バルナック) ・・・・・・。
わかりました。35mm映画用フィルムの将来性については十分にご説明させていただいておりますし、その上での判断であればしかたありません。
(メンゲル) すまんな。
(バルナック) いえ、ただ、私個人としては、この小型カメラの将来性については確信があります。申し訳ありませんが、この後、ツァイス社に申し出て、
退社させていただこうと思います。そしていつか別の会社ででも、このカメラを実現します。
(メンゲル) わかった。引き止めんよ。成功を祈っておる。
ナレーター
その数週間後。バルナックは自宅にツァイス社の先輩であり、現在はウェツラーのライツ社に勤務するエミール・メヒャウの訪問を受けた。
(メヒャウ ) 君がツァイス社を飛び出したと聞いて驚いたよ。僕と同じ行動をとる奴がまさか普段は物静かな君とはね。
(バルナック) 小型カメラを作るという夢の実現のためですから。
(メヒャウ) 僕も同じだよ。設計した映画プロジェクターは画期的だと思うんだが、ツァイスではどうしても受け入れてもらえなかった。ツァイス社は
良い会社なんだが、最近はかなり保守的になっているような気がするな。
(バルナック) 私も先輩がライツ社に入ったと聞いて驚きましたよ。ライツ社はどんな雰囲気の会社ですか?
(メヒャウ) なかなかいいよ。社主のライツさんは若い人間の意見をどんどん聞いてくれるし、仕事場も家族的でやりやすい。
(バルナック) そうですか。
(メヒャウ) 実は、今日は君を誘いに来たんだ。いま会社では顕微鏡の研究開発者を探しているんだが、なかなか良い候補がいなくてね。
そこで君のことを思い出したというわけ。
(バルナック) いや、私にはそんな重責は務まりませんよ。
(メヒャウ) そんなこと言わずに。もう推薦してしまったんだし。
(バルナック) 勝手だなあ。じゃあ、私から、ライツさんにお断りの手紙を書きますから。先輩はあまり動かんでください。
(メヒャウ) わかった、わかった。良いと思うんだがなあ、、、、。
ナレーター
こうして、バルナックはライツ一世に手紙を書く。その内容は、
「やるべき仕事の経験もなく、またその健康状態ときたら、毎年1-2か月は休む必要があり、さらに個人的には治療費に多大の金額が必要とされる、
このような若い従業員を雇うことは、貴社のために決して望ましいことであるとは思えません。」 というものであった。
この能力はあるにもかかわらず正直な青年に感銘を受けたライツ一世はバルナックをぜひにと雇うこととなった。
バルナックは1911年の元日にウェツラーに到着した。
そして、理解あるエルンスト・ライツのもと、映画撮影の露出測定用に映画フィルムを利用した小型機器を作成したことをきっかけに、暖めていた小型写真カメラの
発想を復活させ、それを改良した静止画像撮影用の小型カメラを改めて試作することとなる。Ur-Leicaである。
その試作機は実質的経営者のライツ2世、そして大恩あるライツ1世の認めるところとなり、製品化の道が開かれることとなる。
(第一話 終わり)
|
第二話 パウル・ルドルフ写真部長のツァイス社退職 1911年
配役 *ルドルフ博士(ジロー)
カール・ツァイス社写真部長。プラナー、テッサーの発明者
*ヴァンデルスレプ(はるか)
ルドルフの後継者。その後長く部長職にとどまる。
*社員たち(クラスのみんな)
ナレーター
1911年. カール・ツァイス財団本社写真部門。
いま、輝かしい経歴を残し、写真部長パウル・ルドルフが退社の時を迎えている。
(ルドルフ) やあ、みんなありがとう。いよいよ今日でお別れだ。
どうも社内では私が、一連のパルモス社の放出とICA社設立の動きで経営陣と対立して辞めるのではないかという噂が流れているようだが、
決してそのようなことはない。満足して後進に道を譲るつもりだよ。そこはみんなも理解してほしい。
(社員たち) (ひそひそと)でも、部長と経営側の意見が合わないというのは本当らしいわよ。
パルモス社は部長がかなり苦労して関係者と調整した結果やっと出来た会社だったから、今回の社外放出はかなりショックだったんじゃないかしら?
それに、最近は部長が反対している「テッサーをもっと明るくしろ」という指示があったり、「映画用の新しい構成のレンズ」のアイデアが却下されたりした
みたいだし。
部長もまだ53歳だし、楽隠居するには早すぎるわ。
(ヴァンデルスレプ) みんな、静かに。
(ルドルフ) 私の後は、ヴァンデルスレプ君に引き継いでもらうので、何の心配もない。
知っての通り、彼は入社2年目にして、私の助手として「テッサー」の開発を共同で進めてくれた素晴らしい才能の持ち主だ。
部下思いでもあるし、みんなの信頼も厚い。 ちょっと彼にもしゃべらせよう。
(ヴァンデルスレプ) 部長、長年のご指導ありがとうございました。 いま、お話があったように、入社間もなくの新参者にもかかわらず、ご一緒にこの「テッサー」を
作り上げることができたことは、一生の思い出です。いまや、テッサーは当社のレンズ出荷量の大部分を占めるまでに成長しており、
シンプルなレンズ構成でコスト効率も高いので、会社の収益に多大な貢献をしております。
(ルドルフ) 君には本当に世話になった。
(ヴァンデルスレプ) ただ、一つ残念なことは、もう一つのルドルフ部長の発明である対称型の「プラナー」の生産がほぼ終了してしまったことです。
これは我々スタッフの力不足でもあり、責任を感じています。
(ルドルフ) いや、気にすることはない。レンズには「対称型には対称型の、非対称には非対称の良さ」がある。
ビジネスとしては非対称のテッサーが成功したが、対称型プラナーの性能がテッサーより劣っているとは、私はまったく思っておらんよ。
(全員 )同感です。
(ルドルフ) ただ、経営は人気の高いテッサーの販売をさらに強化して、利益を上げるように求めている。とりあえずf3.5とf2.8を設計したけれど、正直言って
私はf2.8には全く満足してはおらん。設計者としては収差補正に限界があるテッサーの大口径化には賛成できんが、企業としては仕方のない
ことなのだろう。
(ヴァンデルスレプ) はっ。
(ルドルフ) ヴァンデルスレプ君はシュトラウベル役員からも気に入られているから、しっかり強力して、会社の発展につくしてくれたまえ。
(ヴァンデルスレプ) ここにいる社員たちと力を合わせて、レンズ事業の拡大を図っていきます。
(ルドルフ) プラナーの反射面の多さによるフレアとコマ収差は、今は解決できていないが、きっと君たちならいつか解決して、対称型の「収差の自動補正」という
特徴を存分に生かしたレンズを作ってくれるだろう。
(ヴァンデルスレプ) 必ず実現してみます。
(ルドルフ) しっかりと若手も登用し(この二年後にメルテ入社)、ツァイスならではの優れたレンズを設計してほしい。
(一同) わかりました。
(ルドルフ) 私は、これで完全に引退するつもりなので、レンズ作りはもうおしまいにするけれど、ユーザーとして皆さんの活躍を応援しているよ。
(全員) ルドルフ部長、お元気で。
ナレーター
パウル・ルドルフは、こうして悠々自適の老後生活を始めるが、間もなく勃発した第一次世界大戦敗戦後のドイツ恐慌のあおりにより、金融資産は
紙切れ同然となり、1919年Hugo Meyer社への再就職を決断することになる。
そして入社まもなく「プラズマート」シリーズを実用化し、3年後の1922年に当時としては空前の大口径レンズ「キノ・プラズマート」を送り出すこととなる。
それは、シュナイダー社トロニエによるクセノンや当社のメルテによるビオターなどがf1.5を達成する何年もまえのことである。
(第二話 終わり) |
|
第三話、第四話に続く |
|